カテゴリ:家族の話・・・いろいろ( 9 )

母の教え(3)

  私の母は、面白い(^◇^)

 ついに「実家ネタ!」の連続シリーズとなってしまいました。

 今日、私の職場へ久しぶりでやって来た人物がいます。
 稀に電話で話す事もありますが、ほとんどは賀状のやり取りだけでお互いの近況がわかっています。
 元々の出会いは遡ること云十年、私が中学生の頃の「とある、恩師」のA先生。
 当時は一匹狼で、恐かったけれども本当は心に厚みのある魅力的な人柄で、今も細々と交流は続いています。

 「よっ! お前、元気しとるか?」
 「おやぁ~!! A先生!!!」
  
  お互いの近況を話しているうちに・・・私の実家の母の話題になりました...。
  「そういやぁ、お前さんのお母さんは? どうしとる? 元気か?」


 ******************

  私の母は、面白い(^◇^)
  A先生と今日会ったので、どうしても思い出してしまう母のエピソードを書かずにはいられません。それは私の中学時代にまで遡ります。

   私は、中学校では部活が「ダンス部」でした(...赤面(^^ゞ)
   テニス部に入るつもりが、なぜかダンス部に入って3年間を過ごしました。

   そして、授業に組み込まれている選択制のクラブ活動は「拳法クラブ」だったのです(^^ゞ
 拳法クラブは英語のY先生が「少〇寺拳法」を学校で教えていましたが、公立学校なので「少〇寺」の名称もロゴも使わずに行われていました。

 運動系部活は朝練がありますが、ダンス部は放課後のみでした。その代わり、拳法クラブは希望者に朝練をさせてくれましたから、早朝は学校で拳法、放課後はダンス...という中学生活でした。

 格闘技にハマリに嵌った私は、少〇寺拳法の支部(当時は道院と呼んでいた)を電話帳で探して、本格的に入門してしまったのです。一般社会人の男性ばかりの中で、女子は私一人だけでした。。。

 日々、格闘技とダンスの両立で体中がアザだらけの女子中学生でした(⌒▽⌒)
 帯も白色から茶帯になり、目指すは黒帯・・・

   そんなある日のこと・・・
 学校から帰宅すると、満面の笑顔の母が私に
 「今日、お母さんも道院へ行くから~~!」
 「あっそう(参観日か?)」と軽く受け流して、夕食を摂ると道衣を持って出かけました。
いつものように道院に入ると着替えて、整列・合掌・着座・鎮魂・誓句・受身・剛法演武・組手柔法・乱取・整法とそれぞれのレベルに合わせた練習が始まります。

 その鎮魂が終わって目を開けた私はщ(゚Д゚щ) 仰天しました。
な、な、なんと! 道衣をまとって白帯を締めた母が…
そこに (>_<) 立っているっつーの!
   うじょでじょ~
 すかさず近寄り 「なんで!(――゛)」
 母 「だから、来るって言ったじゃない(^^)ニコニコ」
 私 「・・・・・(ありえない)・・・・(絶句)」

それからというもの、母は
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナ・・・「笑顔(^^)」で道院へ通ったのです。

東洋医学にとことん傾倒していた母は、少〇寺拳法の「整法」に強い関心を持ち、入門したのだと後にいいます。

 今、当時を振り返ってみても・・・不思議なことが1つあります。
それは、思春期の私が自分で築いた世界に、予告なく親が侵入してきた事への怒りや羞恥心が全く無かったこと。今、考えても、当時の道院の中での母に対しては、私は全く「身内」という感情が湧いてこなかったのです。不思議でした。
 
 それを唯一、理解できるとするならば・・・それは、母の「熱き心」がゆえの「前向きな姿」を私は見ていたからではないのだろうかなぁ~と、思うのです。
前しか見ずに、口数少なく、目的に向かって突き進む母に対して、恥ずかしいからやめてなどとは1度も思ったことはありません。意思の強いひとりの女性として、母のことを見ていたのだと思います。


    **************

 話は最初に戻って。今日、職場に現れたA先生は拳法六段で支部を持って今も現役で活躍しています。 懐かしい母の話に及んで「A先生、私の健康増進とダイエットを兼ねて、受身無しの柔法だけを習いに行っても良いですか?」と尋ねると・・・A先生「アホ。何年のブランクなんや? 身体を壊すからやめとけ!」と再入門をあっさり一蹴りされてしまいました(⌒▽⌒)
 

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by madorudo | 2010-02-02 00:17 | 家族の話・・・いろいろ

母の教え(2)

 私の母は、面白い(^◇^)

 私の母の家系は元々「日蓮宗」である。
したがって母方の祖母が亡くなった時は日蓮宗のお寺さんにお願いした。
菩提寺もそこにあるから、当然 先祖代々の墓所もそこにある。これ、日本の常識。
(まぁ、最近は霊園を利用する家も多いが・・・)

 ところが、母は若い頃に「小さきテレジア」の生涯を本で読み、カトリック教会で洗礼を受けた。
そのいきさつの詳細は、何度か聞いたが・・・忘れた^_^;すまん。
したがって、母のクリスチャンネームはテレジア。

 やがて、父と巡り合い~結婚するが、これまた父方は曽祖父の代からのプロテスタントだった。
だが、父方の祖母は「金光教」で神道をこよなく愛していた(^◇^)
まぁ、本人同士はお互いがクリスチャンということで特に問題もない、生活に支障もない。

 そして、私を含め3人の子どもに恵まれて、それぞれを母は生まれてすぐにカトリックで幼児洗礼を受けさせた。
姉と私のクリスチャンネームは「マリア」で女性では特に珍しくない。
兄も「洗礼者ヨハネ」と、まぁ多数派。
 (余談ですが・・・洗礼者ヨハネはイエス・キリストに洗礼を授けたお方のこと)

 そんなこんなで、仏教、神道、カトリック、プロテスタントと一つ屋根の下で宗教的には実にややこしいクオーターが成り立った。
しかし、わが道を歩む母の、信仰への真っ直ぐさは一家の中でも抜きん出ており、それはお見事である。が、だ!
私が幼稚園に入る年齢になると、母は面白い行動を取った。
なんと! 私を仏教系の幼稚園に入園させたのである。。。おもろい。どう考えてもオモロイ。

そこの幼稚園は自宅からは遠いがスクールバスが送迎してくれる。
丁度、同じ方向の同じ距離にもカトリックの幼稚園があり、そこもスクールバスが送迎してくれるのに・・・なぜ? なぜ、なぜ?

幼稚園の2年間を、私は袈裟を羽織って木魚を叩く園長先生と毎日を過ごし、日曜日には欧州人の神父さまと日曜学校を過ごす、というスタイルで育ったのである。
   ・・・おもろ過ぎる(^◇^)

 母に、そうさせたには何かの意図があるのか?と尋ねると、
「さぁ、どうだったかしら~ よく憶えていない」という、が確かに意図はあった。母は前進あるのみ、過去は一切振り返らない人間であるからして、「憶えていない...」は事実なのだと今は思う。

 そして、わが家は クリスマスに教会に行き、除夜の鐘を慈しみ、初詣を喜ぶ過程を楽しんだ・・・のは私と母だけで、父・姉・兄・祖母らは皆それぞれの思いで過ごしていた(^◇^)ようだ。
 母は、静かに確かに突き進むタイプ。
 父は、足踏みしてでも拘り、停滞してでも完璧を主義とするタイプ。

今も忘れないこんなエピソードがある。
カレー事件とでも呼びたい。

祖母らは、毎週金曜日=海軍さんのカレー・・・を作るのが好き!
父も子どももカレーは好き! ψ(^◇^)問題ないね。
だが、金曜日はカトリックの小斉の曜日で磔刑にかかったイエス・キリストのことを想い、世界の病や貧困で命を落とす人々のことも想い「肉」を食さない、とされる!
したがって、母の鶴の一声にて、

わが家の金曜日
夕飯=楽しみなカレー=肉無し!
  щ(゚Д゚щ) うじょでじょ~


みたいな週末になるのであった。
「婆ちゃん、お願いだから金曜日にカレーを作るのをやめようよぅ」と懇願した覚えもある。

 今も私はカレーを作るたびに、あの頃を思い出しては(*´艸`)ニヤニヤしてします。
なるべく、金曜日にはこしらえないようにしようと思ってしまうのもトラウマであろうか?

 

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by madorudo | 2010-01-22 16:00 | 家族の話・・・いろいろ

母の教え(1)

 私の母は面白い(⌒▽⌒)

 特に冗談を言うわけでも、サービス精神があるわけでも無いのに。
 私の母は真っ直ぐ素直に生きているだけが・・・見ていて面白い。

 人との深い関わりを持たず、一人でコツコツと思った道を進む。
 家族にも同様である。

 先日は「父の年賀状」と題して2回連続のネタを書いたので、
今回は母をネタにしよう!
(*´艸`)ぷぷ

 「父の年賀状」ネタでも書いたように私の父は、人との関わりに拘る。
その関わり方にも拘るゆえに、毎年のあの年賀状騒動を懲りもせず毎年、繰り返している。

 それが、母は全く逆・・・^_^;なのである。
 生真面目なためにブラックジョークはまず通用しない。
怒りはしないが必ずたしなめられる。
 「子どもの常識」など全く通用しない! 目線は常に大人の位置から決してブレなどしない。
 必要以上に人とは関わらず、拘らない。
 それが、ひとたび! 自身の関心事に「火」がつくと手の付け様もなく真っ直ぐに探求開始、脇目もふらず、ひたすら没頭の世界へと走り始める母である。


   あの父と、この母のいる家庭で育った私たち3人姉兄妹の頼みの綱は、
つまり生命線は、今は亡き二人の婆ちゃんの存在だった、と今でも深く感謝している
(^◇^)ありがとうございます。

  母は、「武家の出の末裔」という・・・真相は至って不明(-"-)
  母は、「公務員たる者の妻は武士の妻と同じである」という・・・わからなくもない(-"-)
  母は、「わが主、わがすべて」という・・・信仰上の問題である(-"-)

 私が子どもの頃に、姉フッ子や兄ヒデ坊とは、どーも性格の違うヤンチャな末娘の私の将来を按じて、事あるごとに箴言、格言、論語などで諭してきた。

  玄関で靴を脱ぐ瞬間に、「脚下照顧!」
  路上を歩いていても、「他人のふり見て我がふり直せ!」
  泣いて帰ると、「君子危うきに近寄らず!」
  外で遊んでばかりいると、「文武両道!」
  マンガを読んでいると、「少年老い易く学成りがたし!」
  手伝いをせずにいると、「義をみてなさざるは勇なきなり!」
  屁理屈でのがれれば、「巧言令色鮮し仁!」
  
  その他 「為せば成 為せねば成らぬ何事も!!」
      「後悔 先に立たず!」
      「われ日に三たびわが身を省みる!」
      「目は口ほどにもの言う!」
      「論より証拠!」
      「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり!」
      「狭き門より入れ!」
      「光陰矢の如し 身命は露よりも脆し!」
      「一寸の光陰 軽んずべからず!」 

   その他、盛り盛りだくさん!
私の近くで、しかも絶妙なタイミングでその場にピッタリの格言、箴言、論語が口から飛び出す。
意味を聞いても特に解説はしない。必要なことは今言った、とばかりに黙って去る母。
   そんな母が・・・面白~い(⌒▽⌒)
   
 これは、私の母の「武士道教育」であったのであろうか?
 現在、82歳になる母は健在。なおもって口を突いて出る。
 
 似たようなことを、私は息子のPin君にも言っている時がある。
 
 ただ、母のようにあっさりとはできない。
 私の体内に宿る、あの父のDNAが私を拘りの世界へと誘うのです。
   

 失敗とは・・・
開拓の精神を忘れ、困難に挑戦する事を忘れた者たちの言い訳です。
 

 う~む、困難だ。


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by madorudo | 2010-01-21 14:55 | 家族の話・・・いろいろ

父の年賀状 (2)

 私の実家の父が執念を燃やし、毎年の年賀状に取り組む姿を前回の記事で書いた。
このネタで続き物にするつもりはなかったが、色々と思い出すとカキコキしたくなってくる。
 私の実家ネタは、尽きないし飽きない連中ばかりがいるからだ・・・(^^ゞ へへっ

 私が幼い頃は、父の年賀状も毎年・・・円い「賀正」ハンコをペタン! 小さめの「元旦」ハンコをペチョ! 最期に「住所・氏名」ハンコをベタ! と「三段階ハンコ技法」で1枚ずつ作成していた。

 乾かして、宛名書きが終わると、父は手書きでその空白部分に、一人ひとりに合った言葉を書き添えて出す・・・1枚作成にどれだけの時間を使うのか・・・と思うほど丁寧な作業を私の父はしている。

 短歌、和歌、俳句で届いた方へは返歌、返句で返し、近況を書いてくる方へは応答文を必ず添えている。しかも、前年度の年賀状とタイアップさせて1枚1枚を見比べながら「相手に合った内容を書かなければいかんのだ!!!」と異常に頑張る。
 そんなことを何年もしていると、どーなるかというと!
間違いなく、先様からの年賀状はどれもこれもが「凝った1枚」となって翌年のわが家に届くこととなる。

 そのように凝った年賀状が・・・父の現役時代は1.000枚を軽く超えていた時期があった^_^;
 それをスタンプと手書きで書き続ける「執念」を私は見て育っている。(敢えて感想は言えない)
 
 年末年始は連日、夜を徹して書き・・・真夜中の休憩時間を頭のクールダウンに一っ走り郵便局まで自転車で走る父の手には数十枚ほど書き上げた年賀状がある。ポストへは入れない。裏口からドアを叩き、作業中の局員に託す・・・なるべく早く届くようにとの思いかららしい。。。
そして、年を越し~元旦~お年玉抽選日ギリギリまでこの繰り返しで、書く、走る、書く、走る、書く・・・。すべてが終了した時には、世間ではもう「正月」とは呼ばない頃になっている。

 現在、88歳(大正10年生まれ)の父は、今でもこの作業を辞めない。
ただし、表書きとスタンプは私のパソコンとなった。

 そして、現在ではピークの頃の約半分の枚数に減った。
それは、父が年齢を重ねると共にパソコンデーターから削除されていく方々が年々おられる、という現実である。
 その寂しい現実を私は父と共に長い年月をかけて見てきたように思う。
 その中でも特に気になるメンバーがある。  
 実際には私は会った事もないが「〇〇さんから、今年も届いた」と私が妙に安堵感を持つのは、父の台北帝大時代の同級生からの賀状である。・・・随分と枚数が減ったものだ、と・・・。

  毎年 私はブツブツと文句を言いながらも永く続いているものだ・・・。
  父よ! まだまだ元気で正月を迎えよう!

        だが、父よ! 明日から、私は仕事始めです!!
        追加印刷は、頼むから早めに申し出てください(ーー゛)
        私ももう若くないのですから! 

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by madorudo | 2010-01-03 14:14 | 家族の話・・・いろいろ

父の年賀状 (1)

 お正月の「元旦」には、私は子どもの頃から外出をするという経験が無かったので・・・
理由は実家の父・ケンケンにすべての原因がある。

 父は、こと「年賀状」に関しては凄まじい執念で挑む人で、私は物心ついたころから、元旦は机の上に山積みになった年賀状と格闘している父の後ろ姿しか見たことがなかった^_^;
 「手抜き」を許さぬ父が、唯一、懇願して家族を総動員させて賀状の「仕分け」と「宛名書き」を依頼する・・・そう、私の実家の正月、特に元旦は実に凄まじい・・・子ども心に、他所さまとは違う正月を迎えさせられる理不尽さに怒りと悲しみと・・・放って置けない家族愛を!?育まされてきた(笑)

 やがて、姉・フッコが一抜け、兄・ヒデ坊がニ抜け、母・ミコタンが三抜けし・・・そして私は知恵がつきはじめ・・・「宛名書き1枚〇円」にて下請け交渉をし、小遣い稼ぎをし始めた(^^ゞ

 そんな、こんなのお正月で実家は毎年、情緒に欠けていた。
 それは、私が県外で学生生活をはじめても、更に就職をしても正月帰省で、ずーーーーーっと続いた。嫁に行ったらもうムリかも?と思いながらも今のようにパソコンは無い時代に頑張った。

  活版「日本語ライター」を習得してバイト先で機械を借りて作業したこともある。
  リソー化学の「プリントごっこ」は発売と同時に飛びついた。
  初期の「ワープロ」を入手した時には神さまに感謝した。
  今では「パソコン」という便利なもので、わが実家の賀状作業は随分とラクになった・・・。

 しかし、毎年 大量に届く父の賀状は、①先に出す人 ②来てから出す人 というややこしい区分があり、更には喪中だの転居だのとパソコン任せにはいかないのが現状である・・・実家から近くに嫁いだ私は、今でも「恐怖の年賀状」正月を過ごしている。。。が、今年はなんと!!!

  「抽選日が10日ほど伸びたから、ゆっくりでいいぞ~」と父からの電話。
   お年玉つき年賀状の抽選が24日になっているので、それまでに届けば良いと思っているらしい フツーは松の内15日までだろ?^_^;

  まぁ、父がそう言うので私は12月31日の夜、夫・パーマンと息子・Pin君に宣言をした!
  「明日は早起きして、生まれて初めての元旦福袋の行列に並んでみる!」

  いよいよ元旦の朝、私は一人で6時起床、7時仕度、8時20分に家を出てショッピングモールへ

  だが、ものすごい行列に圧倒され、この時点で列に加わる気力は失せていた。開店を車中で待つこと30分。オープンと同時に雪崩込む人びとがいなくなったのを見届けて店内へ。。。すでに、福袋を3つも手にした人と階段ですれ違う\(◎o◎)/! すごっ!

  人ごみとは反対の方向で、ゆっくりと物色(^^ゞ 私の周囲は静か。
  そんなぁ~ やはり「中味がわからない福袋」・・・ 貧乏性の私にはとても買う勇気がありません!  でも、なぜか嬉しい 元旦に1人でショッピングヽ(^。^)ノ 人生で初めて。

  結局、普段は贅沢で買うことなどはまずないような商品を中味が確認できるという妙な安心感で1種類のみ購入。
  それが、これ!
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    ボディーシャンプー、ボディークリーム、フットスクラブ etc
    これで、新年は美しくなろう!(多分、3日坊主だろう)

   生まれて 初めて 購入した「福袋」でありましたヽ(^。^)ノ
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by madorudo | 2010-01-02 14:26 | 家族の話・・・いろいろ

62年目の終戦記念日

 私の母は昭和2年生まれで、今も元気でいます。
母は昔から口数が少ないので、昔話は父のようにはたくさんは話しません。いつも前だけを向いて黙々と歩むタイプなので、過ぎた過去の出来事にはたいして関心がないようにみえます。
 先日、息子のPin君が「おばあちゃんって、昔、戦争の頃にアメリカの飛行機に乗っていたパイロットと目が合ったことがあるんだって!」と言いました。
 私は、そんな話を母からは一度も聞いた覚えがなかったのです。でも、急に私が小学生の頃のことを思い出してしまいました。。。

 確か、私が小学校3年生の時、学年本雑誌に、野坂昭如さん原作「火垂るの墓」の漫画が付録で1冊ついていたのです。(文芸春秋に掲載された直後だったのでしょう、実家にあるはずなのですが見つかりません・・・あればきっとお宝なのですが)

 当時、小3の私は「火垂るの墓」を読み終えて・・・丁度、帰宅した母に見せました。母は、さらさらと瞬く間に読み終え・・・大粒の涙をたくさんこぼしたのです。それまで、泣いた母を見たことがなかったのでショックでした。当時、私は幼かったので、大人は「感動」というもので泣くことがあるらしい・・・と知っていましたが、母のその涙はどうもそうではなさそうだと感じました。あの日、漫画「火垂るの墓」を読んだ母は「昔はみんなこうだったからね、思い出したわ」と確かに言い涙を拭いたのでした。

 私は、Pin君の話で、あの日の母とのことを思い出したのです。

 先日、母に初めてたずねてみました、戦時中の思い出を。滅多に昔話をしない母でしたが・・・。

 母は昭和20年~21年当時、神戸で理系の専門学校の寮にいました。2年の飛び級をしていていたので18、19歳頃だそうです。

 母の述懐によるとこうです、
「神戸は空襲が多かったと思う。アメリカの爆撃機が焼夷弾を落としに来ると、その直後に決まって小型の敵機で機銃掃射がやってくる。焼夷弾が落ちてくるのを下から見ていると、全部自分のところへ落ちてくるように見えたし、機銃掃射はどこから撃ってくるか予想がつかなくて怖かったわ。・・・学校の寮は小高い丘の上にあったから狙われたのは丘の下の民家が集まっているところあたりでね、まず焼夷弾で先に火を放っておいて、次に焼け出されて逃げ惑う人たちを狙って、今度は機銃掃射が攻撃してくるわけよ。 学校はもうその頃には授業なんて無かったから、毎日ご奉仕に出るのに丘を下ってみんなで行くのね、炊き出しの「おむすび」を作りに。それがアツアツ炊き立ての熱いご飯を素手で大きなおむすびにするものだから、もう手のひらの皮は赤剥けて熱くて痛くて、涙をこぼしながらおむすびを作るけど・・・でも、そのご奉仕をすると最後に報酬としておむすび3つももらえるの。配給は一人2つづつだけど、おむすびを握るご奉仕隊は最後に必ず3つもらえるから、もう一生懸命にするのね。たった3つのおむすびが、当時の人にとってどれほどのご褒美であったかわかる? みんな何も食べる物が無い時代だったということがどれだけつらいか想像できる?」

「・・・ある時、天皇陛下の御為に奉安殿を作ることになって、下に敷くための「さざれ石」を河原へ取りにバケツを持って同級生と3人で行ったの。河原だから人里離れていて空襲警報が聞こえなかったわけよ。小石を拾ってしゃがみ込んでいて、丁度、私が立ち上がった瞬間、ピョンって真正面から小型の飛行機がこっちへ向かってきて。「あっ」て思う間に真上に跳ね上がって遠くへ消えたの。そのときのアメリカの飛行機のパイロットと目が合った・・・私の立っていた場所は背中側に大きな岩がそそり立っていたから、飛行機はよけたと思うけど、そうでなかったら撃たれていたかもしれない。急いで学校まで戻ったら、上級生はみんな防空壕へ逃げていて誰一人いなくてね、空襲警報を知らなかったのは私たち3人だけだったわけ。こわかったけど、もっと恐ろしい思いをしたからね。」

「学校の寮から敵機が来るのを見ていたら、味方の高射砲で下から攻撃しているのが見えるんだけれど、1発も当たらない。あの時くらいしゃくにさわった事はなかったわ。敵機は悠然と爆弾を落として行って、下からいくら大砲を撃っても敵機のはるか下で届かないから、1発くらい当たれば良いのに忌々しい!とあの時は心からそう思ったものよ。でも、とうとう最後まで1発も当たらなかったわ、1発も・・・」

「でも、あの日のことは今も忘れられないわ。いつものように焼夷弾と機銃掃射が行ったあと、私たち学生は、またその日もおむすびを作りに丘を下って、林の小路をかけって下りていたら・・・小路沿いにポツン、ポツン、ポツン、ポツンと、幾人もの人が小路に倒れていて・・・私が駆け寄った男の子は背格好からして15、16歳ころの男の子で、うつ伏せに倒れていて・・・背中の肩甲骨が両方とも弾け飛んでいたのよ。機銃掃射だったわ。・・・しっかりしてって抱き起こしたら、目は開いていたけど、意識はほとんどなくてね、しばらくすると「お母ぁ・さん・・・・」って言って、私の抱える腕の中で息を引き取った・・・私はあの日の、あの男の子のうつろな目と顔を生涯わすれられない。」

「やがて、終戦を迎えて・・・アメリカ軍の支給で学生さんには一人1缶ずつ、といって配られたピーナツバター。わずかなパンにちょっとだけつけて食べてみたあの時のあの味は忘れられない、美味しかった・・・。敵はこんなものを食べていたんだなぁ~とおもいながら。」

 時流とはいえ、まさに戦争は驚異です。善良な人々から真っ先に犠牲となる。母のようなごくごく普通の女学生でさえ、弾が当たらず敵機が落ちてこない事を忌々しい、と本気で思わせた事が私には衝撃でした。

今日、62回目の終戦記念日(敗戦記念日!)を迎えて、
今年も「平和の鐘」をつきに出かけてきました。
今年は母も一緒でした。

     どうか、世界が平和になりますように・・・。

昨年の今日の記事はコチラ→ 「61年目の終戦記念日」

≪響け、ピース 平和の鐘を鳴らそう≫
2007年8月15日、この日倉敷の地に響かせる鐘の音が、さきの大戦の悲運に失われた多数の人びとのいのちに手向ける、慰霊と鎮魂の響きになりますように。そしてそれゆえにまた、世界平和への私たちの悲願を込めた、久遠の響きともなりえますように。
                    [倉敷ユネスコ協会会長 小野謙二]


戦争体験者の証言→ 「語りつぎたい3000万人の戦争体験」

風化させてはいけない記録→NHK「平和アーカイブス」

忘れてはいけない真実がここにある「NHK特集」←目をそむけないで!

「そしてトンキーもしんだ 子が父からきくせんそうどう話」 
1982年8月13日初回放送

わたしたちは真相を知らずに戦場へ出て行きました・・・
「ひめゆり平和祈念資料館」
      
絵日記による学童疎開600日の記録      
  ・・・ 10月24日(火) 晴 5年女子
  朝 とても寒かったので、畠のまんなかにへお椅子を持って行って日向ぼっこをした。とてもあたたかくてよい所だ。午後から防空えん習をした。防空ごうの入る所をきめた。喜門先生は、「ここがみんなの死にばしょだ。ここをはかばだと思っていなさい」とおっしゃた。・・・

  ・・・  1月10日(水) 晴 4年女子
  朝 先生におねがいして昨日落ちたB29の飛行機を見に行った。とても遠い。やっと着いた。主翼が土の中にめりこんでいた。先生が 「これはだいぶ新しい」とおっしゃった。それから次のところへ行きました。大きなたんぐつ(短靴)や、メリケンやろうの丸こげのがあった。とてもゆかいだった。あまりアメリカ人が大きなくつをはくのでびっくりした。


 今こそ、平和を
       誰に伝えなければいけないのか、
                      よくわかりますよね!

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by madorudo | 2007-08-15 17:35 | 家族の話・・・いろいろ

この本のこと・・・

 お久しぶりです(⌒▽⌒)
続きものの更新をそっちのけにして長い休暇をとっておりました(^^ゞ皆さまはお変わりございませんか?
私もPC前に座るのは久々でございまする(^^)

 今年のお正月にひとり息子のぴPin君が、恒例のお年玉GETに親戚のおうちを巡回。
私の方も、主人の方も身内が少ないので大した労力はいりませんが、それでも年始のご挨拶をということで、一塊に集まっているところを効率よく直撃。そこで、主人の姉から1冊の本を頂いて帰ってきました(⌒▽⌒)小5年になるPinくんのことを意識してわざわざ買っておいてくださった本のようです。

e0044613_20322012.jpg・・・もし「未来」という街角で、私が君たちを呼びとめることができたなら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ、残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
                            だから・・・

 司馬良太郎さんが1989年に小学校6年生の国語教科書用に書き下ろした随筆2作品。司馬さんいわく「一遍の小説を書くよりも苦労した」と仰っただけに、あらゆる読者を想定して書かれてある文章なんだなぁ、というのが伝わってきます。
 「二十一世紀に生きる君たちへ 」は、司馬さんご自身が歩んで来られた人生の中で感じとり育んできたものごとが


 今回Pin君が手にした単行本は、野上透さんの美しい写真がたくさん差し込まれていました。
教科書では5年生、6年生でしたが、この本には全ての漢字にルビがつき、用語解説もありました。
 文章は語りかけてくるような感じで続きます。小学高学年だとサラサラと音読しやすいものですが、内容はとても高尚で、公立小学校などは児童の個人の学力差が大きくなっている高学年ですとやはりこういう内容の読み取りは得意な子とそうでない子に分かれていくように思います。
うちの子は大丈夫だろうか・・・

 今年、4月の新学期に学校から持ち帰った国語の教科書を早速に見ましたが、この本は載っていませんでした・・・来年かな?

 「人は何のために生きるのか?」
 「子どもは何をしなくてはならないのか?」という司馬遼太郎さんのテーマが全編に渡って読者に問いかけ語りかけ続けます。
 人間が生み出した科学技術の進歩と、不変の自然物としての人間の存在・・・大いに矛盾しているこの二つを大人でも上手く頭で整理できずに先送りにしがちで、日々を生きるのに精一杯ですが、この大きなテーマを子どもたちにこんなにわかり易く説明できるなんて・・・と感心しながら読みました。
 子どもだけに読ませるのはもったいない!そんな思いの1冊でした。
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by madorudo | 2007-06-20 04:16 | 家族の話・・・いろいろ

61年目の終戦記念日

 わたしは 広いバナナ畑を歩いていた。
遠く彼方にかすかに見える・・・小さな黒い二つの点が・・・見えた。
 「おや? あれは・・・、何だろうか?」
暫く、ジッと見つめていると、やがてその黒い小さな点はこちらに近づいてきて、その姿を大きくはっきりと見せた!!
「し、しまった!!」
そう思う間もなく、急降下したかと思うと ズダダダダァーン! 
わたしが草むらに飛び込むのとほぼ同時に辺りは激しい爆撃音と閃光と煙にみまわれた。
 暫くわたしは、草むらで身動きとらずに、息を整えるようにして転がっていた・・・。

  あの“黒い二つの小さな点”そう見えたあの物体は、『双胴の悪魔』とのちに呼ばれるアメリカの戦闘機 ロッキードP38だった。胴体が二つあって、中央に操縦席が一つあり発動機を2基搭載した双発。
その双胴体前方から、弾丸は横一列に発射される。それを正面から見ると横真一文字に真っ赤な炎として見える。そして、発射される弾丸の何発かに1発は「曳光弾(えいこうだん)」で、それは赤く長い尾を引いていたのを憶えている。

・・・草むらに転がってどのくらいがたっただろうか。 まだ、薄く煙の糸を吐く地面に刺さったままの弾丸の穴をわたしは見つめていた・・・。やがて起き上がって、突き刺さった弾丸をほじくり出して見ようと、近くにあった木切れで穴を掘ってみたけれども、それは地中深く深くにめり込んでいて、とうてい掘り出せはしなかった・・・。

あの日、わたしを狙った戦闘機は試しに撃ってはきたが、たった一人の民間人を仕留めるためにわざわざ引き返してはこなかった。しかし、もしもあの日、あのバナナ畑でわたしがたった一人だけではなく、もっと大勢であの場所にいたなら、あの戦闘機はきっとまた戻ってきていただろうよ。

あの頃は「わたしも、いつかは戦争で死ぬだろう・・・」と、そう漠然と感じていたし、「戦争に行くことは、男の責任」のように思っていた。

もっとたくさんの修羅場を見てきたが、わたしは死なずに終戦を迎えた。もし戦争で命を落としていたなら・・・そうしたら、今頃ここで、「あんたとあんたにこんな話はしていなかったんだろうなぁ・・・」と、
           『私の父』は、Pin君と私にそう話した・・・
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 この話は5月にPin君が骨折入院した際、お見舞いにやって来た私の父が、戦争の体験話をいつもせがむPin君にベッドサイドから語りかけた内容を、ほぼそのまま忘れないように書き留めていたものです。
私(マドレーヌ)の父は当時、台北(台湾北部)にいました。召集され、軍隊を経験し、終戦後に台北を引き揚げるまでの間の話を思い出しながら、時々、娘である私と、孫であるPin君にも話してくれます。
今日は61回目の終戦記念日。毎年、この日、父は台北帝大時代を一緒に過ごし、戦死して逝った優秀な仲間たちのことをたくさん思い起こす、と言います。
 今日、父に連れ添ってPin君は、正午よりお寺で鳴らす「哀悼の鐘」をつきに出かけます。

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「理由もなく、戦争をするのはいいことだ、どんどん戦争をしようと考えているひとはいないと思う。でも、正しい理由があれば戦争をしてもいいと考えている人は多い。相手をやっつけなければ、こっちがやっつけられてしまうから、したくないけど戦争をしているというわけだ。ぼくら人間はおおむかしからそうやって戦争をしてきた。戦争はいやだ、戦争はしたくないと思いながら。

どうしてだろう? それは人のこころのなかに、平和がないからだとぼくは思う。平和をじぶんの外につくるものだと考えると、平和をめざして戦争をするということにもなる。じぶんのこころを平和にするのはむずかしい。でも、まず始めにこう考えてみたらどうだろう? 戦争はじぶんのこころのなかから始まると。戦争をひとのせいにしないで、じぶんのせいだと考えてみる。

ひとをにくんだり、さべつしたり、むりに言うことをきかせようとしたり、じぶんのこころに戦争につながる気持ちがないかどうか。じぶんの気持ちと戦争はかんけいないと考えるかもしれないが、それでは戦争はなくならない。

まずじぶんのこころのなかで戦争をなくすこと、ぼくはそこから始めたいと思う。」
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   絵本『おにいちゃん、死んじゃった――イラクの子どもたちとせんそう』
                詩 谷川俊太郎、絵 イラクのこどもたち~より
                            (谷川俊太郎のあとがき)


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 みなさま、お越しいただけて感謝です。しばらく、体調をこわしてブログが放置自転車状態になっております。ですが今日は、どうしてもカキコしたかったので、数週間前からポチポチ入力していた文を投稿させていただいております。コメントを頂いても、しばらくはお返事ができないかと思います、申しわけございません。命には別状無く療養させていただいておりますので、ご心配にはおよびません。 ほんとうに皆さまに感謝です。
                    マドレーヌ
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by madorudo | 2006-08-15 08:41 | 家族の話・・・いろいろ

岩里政男さんという人

 読みたい本がたくさんある中で、「父の日」のプレゼント用に購入した本がありました。
Pin君がケガで学校を休んだ一週間は、私も仕事を休んだので、PCに張り付くわけにもいかず、ならばとおもい読書にふけることにしました(あまり時間はありませんでしたが)

 私の父は大正10年生まれで、生後1歳のときに一家揃って台北へと行きます。祖父の仕事のためでした。そして、父は終戦後に引き上げで日本に戻るまで台湾で育ちます。
 私は、父から台湾の話を聞くのが子どもの頃から好きです。台湾という国が昔、日本だった頃・・・父はそこでどのような教育を受けて成長したのか、もっと客観的に知りたいと思っていたので、今回 私が「父の日」用に購入した本は、父のためにというよりは、もっと父と台湾の話を楽しみたいと思う私自身のために購入したようなものなのでした。 
その本は「岩里政男」という名だった元日本人が書いた本です。
 彼は、大正12年に台北に生まれます。当時の日本人教育を受け、京都帝国大学に入学し、戦時下においては日本帝国陸軍人として部隊に所属していました。やがて、終戦を迎えると台湾へ戻り、台湾大学(前身は台北帝国大学)を卒業します。
 この本の中には、日本という国の「本来の素晴らしさ」がぎっしりと書かれてありました。
 
 彼、岩里政男さんという人は、終戦を迎える22歳まで日本人だった人ですが、その後、台湾の本土化をすすめる改革のなかで、やがて重要な人物となっていきます。
その人物とは、台湾の歴史上初めて、総統直接選挙を実現させた人物・・・李登輝前総統。岩里政男さん=李登輝前総統です。

 私の父が台湾を懐かしみ語る中には、楽しい話に混じって、いくつもの苦労話があります。でも父の語る台湾での生活の中には、当時を「内地」で暮らしていた人たちとは少し違う空気も感じます。やがて太平洋戦争を迎え、一層過激に軍国主義一色となっていく日本の激動の時代までを、李登輝前総統とほぼ同じ時期に私の父も台湾で過ごしていた・・・ということに、この本を読みながら私はワクワクしたのです。

 過去に、戦争という混乱へと人民を導いていった軍国主義は誤りだったけれども、でも、私は自分の両親、祖父母、主人の両親のことを考えるとき、それまでの日本の教育の全てが間違っていたとは、とても思えませんでした。当時、台湾を統治していた日本が、台湾で何をしていたか・・・、どうして現代のの日本人以上に日本をこれほどまで愛し、熱く語れる人々が、今でもこんなにたくさん台湾にいるのか・・・。今回、私は この本を読んで日本という国がこれほどに素晴らしい国(だった?)なんだということが発見できて、勇気を与えられた気がしています。

 私の父は台湾を引き上げて以来、一度も台湾に行ったことがありません。父の兄弟姉妹は機会があるごとに同窓生に会いに何度か訪問していますが、父は仕事が忙しくチャンスを逃してきました。ずーっと、思っていたのは父と一緒の台湾旅行です。父は高齢です、でも、もう一度父の「故郷」ともいえる台湾を見せてあげたいんですけどね。行けるかなぁ~。

  それから、李登輝前総統と奥様の曽文恵さんは
                    カトリック信徒なのです。

      何をもって、わたしは主の御前に出で
      いと高き神にぬかずくべきか。
      焼き尽くす捧げ物として
      当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
      主は喜ばれるだろうか
      幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
      わが咎を償うために長子を
      自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
      人よ、何が善であり
      主が何をお前に求めておられるかは
      お前に告げられている。
      正義を行い、慈しみを愛し
      へりくだって神と共に歩むこと、これである。
 
             旧約聖書 ミカ書 第6章6節~8節

  どんな時代がこようとも、
       正義と慈愛と謙遜とが真理へとつながる道なんですね。

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「武士道」解題-ノーブレスオブリージュ 
          李登輝(著)
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by madorudo | 2006-06-05 21:35 | 家族の話・・・いろいろ