62年目の終戦記念日

 私の母は昭和2年生まれで、今も元気でいます。
母は昔から口数が少ないので、昔話は父のようにはたくさんは話しません。いつも前だけを向いて黙々と歩むタイプなので、過ぎた過去の出来事にはたいして関心がないようにみえます。
 先日、息子のPin君が「おばあちゃんって、昔、戦争の頃にアメリカの飛行機に乗っていたパイロットと目が合ったことがあるんだって!」と言いました。
 私は、そんな話を母からは一度も聞いた覚えがなかったのです。でも、急に私が小学生の頃のことを思い出してしまいました。。。

 確か、私が小学校3年生の時、学年本雑誌に、野坂昭如さん原作「火垂るの墓」の漫画が付録で1冊ついていたのです。(文芸春秋に掲載された直後だったのでしょう、実家にあるはずなのですが見つかりません・・・あればきっとお宝なのですが)

 当時、小3の私は「火垂るの墓」を読み終えて・・・丁度、帰宅した母に見せました。母は、さらさらと瞬く間に読み終え・・・大粒の涙をたくさんこぼしたのです。それまで、泣いた母を見たことがなかったのでショックでした。当時、私は幼かったので、大人は「感動」というもので泣くことがあるらしい・・・と知っていましたが、母のその涙はどうもそうではなさそうだと感じました。あの日、漫画「火垂るの墓」を読んだ母は「昔はみんなこうだったからね、思い出したわ」と確かに言い涙を拭いたのでした。

 私は、Pin君の話で、あの日の母とのことを思い出したのです。

 先日、母に初めてたずねてみました、戦時中の思い出を。滅多に昔話をしない母でしたが・・・。

 母は昭和20年~21年当時、神戸で理系の専門学校の寮にいました。2年の飛び級をしていていたので18、19歳頃だそうです。

 母の述懐によるとこうです、
「神戸は空襲が多かったと思う。アメリカの爆撃機が焼夷弾を落としに来ると、その直後に決まって小型の敵機で機銃掃射がやってくる。焼夷弾が落ちてくるのを下から見ていると、全部自分のところへ落ちてくるように見えたし、機銃掃射はどこから撃ってくるか予想がつかなくて怖かったわ。・・・学校の寮は小高い丘の上にあったから狙われたのは丘の下の民家が集まっているところあたりでね、まず焼夷弾で先に火を放っておいて、次に焼け出されて逃げ惑う人たちを狙って、今度は機銃掃射が攻撃してくるわけよ。 学校はもうその頃には授業なんて無かったから、毎日ご奉仕に出るのに丘を下ってみんなで行くのね、炊き出しの「おむすび」を作りに。それがアツアツ炊き立ての熱いご飯を素手で大きなおむすびにするものだから、もう手のひらの皮は赤剥けて熱くて痛くて、涙をこぼしながらおむすびを作るけど・・・でも、そのご奉仕をすると最後に報酬としておむすび3つももらえるの。配給は一人2つづつだけど、おむすびを握るご奉仕隊は最後に必ず3つもらえるから、もう一生懸命にするのね。たった3つのおむすびが、当時の人にとってどれほどのご褒美であったかわかる? みんな何も食べる物が無い時代だったということがどれだけつらいか想像できる?」

「・・・ある時、天皇陛下の御為に奉安殿を作ることになって、下に敷くための「さざれ石」を河原へ取りにバケツを持って同級生と3人で行ったの。河原だから人里離れていて空襲警報が聞こえなかったわけよ。小石を拾ってしゃがみ込んでいて、丁度、私が立ち上がった瞬間、ピョンって真正面から小型の飛行機がこっちへ向かってきて。「あっ」て思う間に真上に跳ね上がって遠くへ消えたの。そのときのアメリカの飛行機のパイロットと目が合った・・・私の立っていた場所は背中側に大きな岩がそそり立っていたから、飛行機はよけたと思うけど、そうでなかったら撃たれていたかもしれない。急いで学校まで戻ったら、上級生はみんな防空壕へ逃げていて誰一人いなくてね、空襲警報を知らなかったのは私たち3人だけだったわけ。こわかったけど、もっと恐ろしい思いをしたからね。」

「学校の寮から敵機が来るのを見ていたら、味方の高射砲で下から攻撃しているのが見えるんだけれど、1発も当たらない。あの時くらいしゃくにさわった事はなかったわ。敵機は悠然と爆弾を落として行って、下からいくら大砲を撃っても敵機のはるか下で届かないから、1発くらい当たれば良いのに忌々しい!とあの時は心からそう思ったものよ。でも、とうとう最後まで1発も当たらなかったわ、1発も・・・」

「でも、あの日のことは今も忘れられないわ。いつものように焼夷弾と機銃掃射が行ったあと、私たち学生は、またその日もおむすびを作りに丘を下って、林の小路をかけって下りていたら・・・小路沿いにポツン、ポツン、ポツン、ポツンと、幾人もの人が小路に倒れていて・・・私が駆け寄った男の子は背格好からして15、16歳ころの男の子で、うつ伏せに倒れていて・・・背中の肩甲骨が両方とも弾け飛んでいたのよ。機銃掃射だったわ。・・・しっかりしてって抱き起こしたら、目は開いていたけど、意識はほとんどなくてね、しばらくすると「お母ぁ・さん・・・・」って言って、私の抱える腕の中で息を引き取った・・・私はあの日の、あの男の子のうつろな目と顔を生涯わすれられない。」

「やがて、終戦を迎えて・・・アメリカ軍の支給で学生さんには一人1缶ずつ、といって配られたピーナツバター。わずかなパンにちょっとだけつけて食べてみたあの時のあの味は忘れられない、美味しかった・・・。敵はこんなものを食べていたんだなぁ~とおもいながら。」

 時流とはいえ、まさに戦争は驚異です。善良な人々から真っ先に犠牲となる。母のようなごくごく普通の女学生でさえ、弾が当たらず敵機が落ちてこない事を忌々しい、と本気で思わせた事が私には衝撃でした。

今日、62回目の終戦記念日(敗戦記念日!)を迎えて、
今年も「平和の鐘」をつきに出かけてきました。
今年は母も一緒でした。

     どうか、世界が平和になりますように・・・。

昨年の今日の記事はコチラ→ 「61年目の終戦記念日」

≪響け、ピース 平和の鐘を鳴らそう≫
2007年8月15日、この日倉敷の地に響かせる鐘の音が、さきの大戦の悲運に失われた多数の人びとのいのちに手向ける、慰霊と鎮魂の響きになりますように。そしてそれゆえにまた、世界平和への私たちの悲願を込めた、久遠の響きともなりえますように。
                    [倉敷ユネスコ協会会長 小野謙二]


戦争体験者の証言→ 「語りつぎたい3000万人の戦争体験」

風化させてはいけない記録→NHK「平和アーカイブス」

忘れてはいけない真実がここにある「NHK特集」←目をそむけないで!

「そしてトンキーもしんだ 子が父からきくせんそうどう話」 
1982年8月13日初回放送

わたしたちは真相を知らずに戦場へ出て行きました・・・
「ひめゆり平和祈念資料館」
      
絵日記による学童疎開600日の記録      
  ・・・ 10月24日(火) 晴 5年女子
  朝 とても寒かったので、畠のまんなかにへお椅子を持って行って日向ぼっこをした。とてもあたたかくてよい所だ。午後から防空えん習をした。防空ごうの入る所をきめた。喜門先生は、「ここがみんなの死にばしょだ。ここをはかばだと思っていなさい」とおっしゃた。・・・

  ・・・  1月10日(水) 晴 4年女子
  朝 先生におねがいして昨日落ちたB29の飛行機を見に行った。とても遠い。やっと着いた。主翼が土の中にめりこんでいた。先生が 「これはだいぶ新しい」とおっしゃった。それから次のところへ行きました。大きなたんぐつ(短靴)や、メリケンやろうの丸こげのがあった。とてもゆかいだった。あまりアメリカ人が大きなくつをはくのでびっくりした。


 今こそ、平和を
       誰に伝えなければいけないのか、
                      よくわかりますよね!

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by madorudo | 2007-08-15 17:35 | 家族の話・・・いろいろ
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